1日映画の日にラ・ラ・ランド
惜しくもオスカー作品賞を逃したラ・ラ・ランドを観てきました。
今日は映画の日で1,100円で観られるのですが、それにしてもすし詰め満員の映画館は久しぶり。
ちょっとスクリーンが近いかなって感じの席で音も立てずに行儀よく観賞しましたよ。
アメリカの映画館だったらノリノリな盛り上がりのシーンも日本ではとっても静かでスクリーンと音声に集中出来ました。
ネタバレするとなんなのであまり感想は書きませんが、ラストに向けての二人のアナザーストーリーが泣けた。
ほろっとじゃなくて本当に涙がポロポロ流れてしまいました。
アナザーストーリーは、観賞者の心の中の代弁のような、こうあって欲しかったって言うのを短時間でフラッシュバックして行きます。
なんて言うか一作で二作分の感動、美味しさって言うんでしょうか。
ああ 映画ってやっぱりいいな。
それにしても映画を観ていて泣いたのっていつだっただろうか。ハチ公物語は泣いたな。
ノッティングヒルでも泣いたな。
砲艦サンパブロの虚無感でも泣いたな。
ベルリン 天使の詩がモノクロームからカラーに変わるシーンもほろっと来たな。
暗闇の映画館の座席で誰にも気付かれずに泣くのは気分がいい。
ラ・ラ・ランド いいですよ。
ほろ苦い大人の映画です。
人の中にある記憶
先日定期的に歯の具合を診てもらっている歯科医院に行った時のこと。
異常は特に見つからず、ガリガリスリスリとクリーニングだけしてもらいました。
施術が終わって支払いを済ました際に、受付にいた歯科衛生士の女の子から突然たずねられました。?
ワンちゃん元気ですか?
わたしは少しの間の沈黙の後に、ララが昨年の正月5日に亡くなった事を説明を交えながら話したのだった。
それは淋しいですね と返す言葉を失いつつも、歯科衛生士さんは声を続けた。
さて彼女にララの事を話したのいつの頃だっただろうか。たぶん一昨年前の夏にララが腺がんの手術から生還した頃の話だろう。
それから何度もこの歯科医院には来ているし、彼女にも何回か会っているはずなんだが。
その歯科衛生士さんの彼女の中ではララはその時まで生きていることになっていて、その日のわたしの言葉から突如としてララが死んだ事を彼女は知ったのだった。
人の中にある記憶は、こうしてある日突然修正を余儀なくされることがある。
あの人、あいつ、あの子、今どうしてる?
と言う問いは考えてみると少しこわいし、ある人の答えの具合によっては淋しい心持ちになることもある。
全く変わらずに、と言うことが貴重でいかに幸せな事なのか。
前に何も起こらないで平和な事がいちばんいいって書いたけれど、それは自分のためでもあるし自分の周りの人のためでもあるようだ。
しょっちゅう会ったり連絡を取っていたりしている関係以外では、その人や自分のそれからの話がない。会った日、連絡取り合った時で記憶は止まる。もちろんそれを憶えている、忘れないってことが前提の話なんだけど。
歯科衛生士さんの彼女がララの事を、そんな2年近く前の話を憶えていたのは。わたしがその時いかに不安な心持ちでララの術後を話していたかが分かる。
どうせ口を開いて人に話をするのなら、相手の人に自分の気持ちが伝わるように話して行くべきなんだと考えてしまった。
今回の出来事ではララの事を憶えていてくれて、ありがとうって気持ちになりました。
それとは逆に、たとえば綺麗な思い出を封印したいのなら会わないほうがいいって人がいるのも事実なんだけどな。
何年も経ったあとに、実はあの時ほんとうはこうだったんだよね なんて自分の記憶を逆撫でされるとつらい。会わないほうが知らないほうが幸せっだったって事からわたしは出来るだけ避けていたいほうの人間なんだなって。
それを現実逃避型って言われちゃうと悲しいかな。
野生って自分を憐れんだりしない。
ララも自分が死ぬことへの恐怖なんか微塵も感じさせなかった。
そう考えると人間ってやっぱり弱いなって自覚してしまう。
だいぶ話が脱線して来たので、この辺で。
ジェノヴァからイタリアンリヴィエラ ニース カンヌ
旅程を考えていたらジェノヴァ行きのターキッシュの格安チケットが見つかったので早速申し込んだら、売切れと言うことでアリタリア便の普通の奴を案内された。
ターキッシュ便が本当に有ったか疑わしい客寄せ広告メールのような気がしたが、丁重にアリタリア便はお断りしたのだった。
イタリアンリヴィエラからニース カンヌを見て回るには、ジェノヴァ行きの便はとても捨て難い。
フィレンツェにもミラノに出るにも便利だし、要は国際免許を引っ提げてレンタカーをぶっ飛ばす度胸勝負の旅だ。
ちなみにジェノヴァ行きのターキッシュ便は57,000円と言う破格値で、アリタリア便は148,000円と言うよくありげな価格だった。
ヨーロッパは本当はもういいかな?って気になっているので、今は本当はニューヨークに行きたい。
タイムズスクエアあたりで日がなブラつくのもよし、セントラルパークでホットドッグにかぶりつきながら読書するのもよし。
リッチモンドまで足を伸ばしでウォルター・ヒルの世界に浸るもよし。
今日からロードショーのLA LA LANDの世界に浸るならロスアンゼルスに行ってみるのもいいだろう。
きっと何かが生まれるはずさ。
むかし若い時は上にあがることこそが生きる糧になると信じて疑わない自分を意識していたんだけれども。
今は忘れ難い深い思い出や、年賀状をなんとわなしにやりとりしてる人びととの交流が愛しい。
またへんな流れになりそうだからここいらでやめておこう。
南風が吹いても彦根に残雪
テレビで彦根の町の様子が流れていたのですが、琵琶湖畔の彼の地は雪に覆われていて、ふと自分のヨットが気になりました。
ああ、近江牛のすき焼きを美味しい日本酒とともにたらふく頂きたい夜です。
明日からはまた気温も下がり、山間部では荒れた天気になるようです。
外出の時はまだまだ厚着が必要ですね。
しばらくブログを放置するとなに書いたらいいのか分からなくなりますが、なに書いてもいいんだと思い直しているところです。
3月になったら、どこか遠く遠くに行きたい。
景色や景観、まち行く人を眺めて、夜にはお酒を飲んで。自分をかえりみたい。
やっぱり愛犬だったララを亡くして、毎日考えざるをえません。
転勤と長期出張の連続だった生活。
ララはそれに全部随伴してくれた。
長かったな。
生きて行く道は長い。これからも。
スマホをiPhone7plusに変えました。
画面が大きくて目に優しいと思います。
それまで5Sのサイズが気に入っていたのに勝手なものです。
勝手なやつと 笑ってくれよ。
リーバイス501-0000オリジナル ボタンフライ リジットを育てる
かつてはウォッシュドデニムを買って来てなにも考える事なくジーンズを履いていた自分。
ここ2、3年はノンウォッシュのリジット501を買って、洗濯せずに履きっぱなししにしたり、リンス剤を使って洗濯機の中で熟成させたり、或いは普通に洗濯したりと3通りのジーンズで履き回ししている。
リーバイスの501-0000リジットは、実は履きこなすのがとても難しい。
洗濯の時にどうやって干すのかでもデニムの風合いが変わってしまうし、洗濯したと言うことはもう一度自分の身体に馴染ませなくてはならなくなったり結構面倒だ。
デニムは伸縮する。
お店によってはリジットの501を洗濯したらどれくらいレングスやウェストが縮むなかサイズチャートにして出しているところもあるが、これが案外あてにならなかったりする。
風呂あがりの湯で洗濯するのと、この時期冷たい水道水で洗濯するのとでも伸縮の度合いは違ってくる。
レングスのサイズは掴めて来たんだけど、ウェストサイズことに太腿やふくらはぎがアルペンスキーで太くなってしまった自分にはリジットのリーバイス501はかなり難関になっている。
いったいいつまでデニムで過ごせるのか分かりませんが、部屋着のチャンピオンリバースゥイーブ以外はデニム地のボトムスしかない。
デニムに、トップスはなんでも合わせちゃう。それでいい、それで行こうってモードに入っている。
まあ難しいことは考えずに501ライフを楽しみたい。今はそんな感じだ。
トランプ就任でパソコンクラッシュ
スカイプでペンシルベニアにいる友人氏と現地の状況をやりとりしてたんだけど、パソコンが途中からテロって来てそのままクラッシュしました。
わたしは反トランプなんで、まあトランプの怨念恐るべしですね。
bootmenuからHDDが消えてしまいました。
最近はiPhoneばかりで、たまにノートパソコン開いたらこの有様です。
トランプの宣誓はふつうですね。
ツイッターやめれば案外ふつうの大統領になれんじゃない?
そんな感じ。
でもないかな。なんかね、口はすごいんだけど理念と策が無いようなんだよね。だから凄い不安な気持ち。
就任演説は雇用創出とかではじまりましたが、朝のニュースで詳細分析されるんでしょう。
同時通訳聴いた限りではやっぱり理念と政策は無いなって感じ。
またWindows7の安いパソコン探して書いますわ。
トランプ就任式で止まったパソコン。お疲れ様でした。
雪は まだ これから
ブログを長期間放置してしまいました。
特段書くことがなかったからとか、言い訳はたくさんあるけれど要はやる気が失せてしまったのです。
そうして長い間放置していたとしても、ブログのボディは残っている訳でございまして。
それはまるでヒマラヤ登頂で遭難死したまま回収されないオロク(遺骸)に似て、なぜだかこうなんとも言いようのない雲の上の墓標であるかのよう。
気に入ったブログがあって、それでそこのブログ主さんがいなくなって日付けが止まったままのブログを見るのはやっぱり少し悲しい。
これからまたつまらない事がらでも書いていこうと思います。
年が明けたんだかどうだかよく分かりませんが、ひとまず本年もよろしくお願いします。
冬の恒例になるスキーへはまだ行けてないでいます。
道具や用品をクルマに積んだままにしていつでも行けるようにはしているのですが、なんだか天気予報とかゲレンデのライブカメラをのぞいては頭の中に行かなくてもいい言い訳をひねり出してしまって、昔みたいに高速に飛び乗って山に向かう事が出来ないでいます。
スキーが好きだとして、そうなるとバーンコンディションとか、自然環境に贅沢を言ってしまいたくなる。
ただ滑ることが出来ればいいと言う幼年期があったとするならば、今は日和見の青年期みたいなスキーになってしまっている。
その先へ進みたい。
ただ自分がいて、山が在り、そこに雪。そう言う境地になりたい。
考えてみると、かつては野麦峠にはじまり蔵王や月山ですら日帰りで温泉まで楽しんでスキーへ向かってた。山は逃げないんだけどね。
今またそれが出来るのか?って言われると、出来るけれど2回目3回目の経験が初回を上回る感動のようなものを呼び起こせるのか、ってところに尽きるんじゃないかと。
普遍性みたいなものに憧れながらも、いまだ未完成なまま。
衝動に駆られて、ヨシって拳を握り締めながらまた行ってみたい。
どこへでも。